仏飯講 市指定史蹟
「浄土真宗の教えは古くよりこの地方にも広まっていたと思われるが、永正十年(1513年)に本願寺より仏飯講の講名を許されて、これを一番組、二、三、番組に分けて、高原、高崎、高城、三股、遠くは鹿児島の末吉、財部、福山、敷根、垂水等大隅一円にまで繋がりを持っていた。天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐以後に島津氏は浄土真宗を禁じ厳しく取りしまった。信者は山の中に洞穴を掘り御名号を掲げて法燈を護り読経の時等は辻々に張番を置きお勤めをしていた。然し度々の法難に捕えられて、ひどい責苦にあい遠く鹿児島の牢につながれた者もあった。又、逃がれ得ぬものと覚悟をきめ自刃し果てた者も数多く、此処にある四元次郎右衛門事右田与七墓とあるのは、元は北八所墓地にあった七基のうちこれだけが文字が彫ってあった。仏飯講系図には此田与八という殉教者も出ているので、これは何人かの殉教者の代表供養墓石として建てられたのではないかとも考えられる。昭和四十八年にこの場所に移したものであるが発掘した時は遺骨や遺品等は発見されなかった。内場仏飯講の碑は先祖の護法の歴史を永く子々孫々に伝えようと昭和十六年五月五日に建立されたものである。内場とは京都の本願寺に代表が献納金をもって参詣の折には内陣までの参入を許され、直門徒しての取扱いを受けるという意味である。仏飯講の他にも焼香講、元焼香講、お花講、煙草講、御鏡講等いろいろの講があったようで司直の手による取り締りの時等は全体がいもづる式の検挙から免れるための組織であったとも思われる。尚、ここより見える北方の山田口の町有林に殉教の地といわれる場所があり石碑が建立されている。」
小林市教育委員会 |