甲斐右膳、甲斐大蔵父子の墓 宮崎県指定
「右膳文化十四年児原神社の神主重質の嫡子として越野尾に生まれる。初名豊前のちに右膳と改む米良領主則忠の嗣子武臣の鹿児島藩校造士館留学を斡旋する。人吉藩士新宮多気馬らと尊王運動につとめやがて京都に赴き真木和泉、山田十郎にあい三条実美に謁し密勅を奉じて米艮に帰る。人吉藩では藩の許可なく上京した事、武臣を勝手に鹿児島に留学せしめた事を理由に文久三年十一月九日稲荷神社大祭日に捕えられ人吉に幽閉され元治元年六月十三日四十八歳で獄中に死亡した。明治二十四年靖国の神に列せられ靖国の神に列せられ同三十五年特旨を以て正五位を追贈された。
大蔵 天保九年右膳の嫡子として越野尾に生まれる。幼時人吉藩士士加賀久米作の門に漢学を学び安改元年の春京部に留学文久元年まで赤松祐以に国学を学んだのち米良領主則忠の近習となり武臣の鹿児島藩校留学では父右膳とともに人力した。以後父とともに国事に奔走するが文久三年十一月九日父叔父と人吉藩に捕えられ、元治元年八月二十四日獄中に死んだ二十七歳の短い生涯であった。明治二十四年父右膳と同時に靖国神社に合祀され同三十五年従五位を追贈された。
右膳、大蔵父子は獄中にあっても尽忠の至誠に燃え詩歌に自らを慰めたという。
露霜のおきての後か紅葉の
赤き心は 人のめづべき 右膳
天津日の御ため 消えて匂うかな
吉野の山の花の下露 大蔵」
西米良村教育委員会 |