高屋神社由緒
「神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇八代後陽成天皇の御宇慶長十六年(紀元2273年)に社殿の改造の棟木あり。
又、神官の系図により仁明天皇の嘉祥二年(紀元1509年)に神官となりし事記載あり、このことによって、その由緒が伺える。
更に神社の西方に小高き處あり、彦火々出見命の山稜と言伝う。即ち日本書紀に言う日向の高屋山稜に葬るとあるは、即ち是なり。鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇築紫に座すこと四十ヶ年日向宮崎郡村角と言う處、天皇仮皇居地の霊山なり。高屋と言う神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し日向五郎八院旧集に景行天皇が、この高屋の宮を定めて、功臣武内宿称して、彦火々出見命の山稜を定めて鎮祭し、高屋八幡宮と言う記録がある。
右御陵より、約五十米北方に、母場御前と言う處あり。そこは火々出見命御降誕の時、竹刀で臍の緒を切った後其の竹刀を投ぜ給ひし處で、中古迄は、其の辺に孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治八年十二月開墾して、村役詰所の家屋を新築せり。
北西の約百米隔てて、字安尊と言う處あり。火々出見命御降誕あらせ給ひし所と言い伝う東の方五十米程隔てて胞之尊と言う處あり。火々出見命の御胞を納め奉りし所と言い伝え、今は宅地となりしが、其の庭中に高屋神社祭典の節は、御奉納所と申し奉りて奉幣する處あり。
又、天神川、御手洗川と言う川あり、天神川は火々出見命に献る御飯を炊きし處と言い伝えて村民此の川上の水口にて、手足を洗うことなし。御手洗川は、天神川の下流で、同命御降誕の時、鹿葺津比賣命が臍の緒を切って御手を洗い給いし處と言い伝う。
右の外に、中尊、橘尊、京尊、ウ尊、クモ尊、正政所などと称する所がある。祭典の日、神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。
此の所は、仮の皇居と言い、又、当宮を西方へ六百米の處に、犬ヶ城と言う處あり。狗人の住み給う處なり、即ち火酢芹命の旧地と言い伝えられる。」 |