旭丘神社 御由緒
「ここは、元和元年(1615)旧領主、北郷忠能公御代に一国一城の令により、本城とした都之城(現在の歴史資料館)が廃城となり、此の地に御館を定め御移りになった。その時には既に天神様が祀られて祭られてあったと記されています。
明治新政府となってから、
都城西口に常備隊練習場が設けられたとき、国家鎮護の神、武ミカ槌神、経津主神、楠正成霊、島津義弘霊を勧招して武神として祀り、明治六年社名を改めて、現在の旭丘神社として霊験あらたかな『文武の神』として『ぐんじんさぁ』の呼び名親しく市民の尊崇を集めている神社であります。
荘内地理志 中之郷 下長飯
御館
上之別府天神(古帳では氷室天神)
はじめ草創の由緒は知れないが、旧記には忠能公御代、元和五年の高帳には、高八石上別府天神領とあり。其以後は式部大輔久直様御代、寛永十三年子七月十九日記に、天神山に召しおかれていた鹿三匹をとらせて今日城の方に送った。使は城ケ崎軍兵衛とあり。
私に高域春日え御寄進になった。私が考えますに、此地天神勧請は、其前久しい頃で忠能公が元和元年に新地に御移りになってわずかに二十二年であるから、諸木の茂り具合を見れば、その前から山立があってこそ、天神山と記したことになる。
御下城前何時傾からか既に諸木が残っており、天神が立っていた。又、安政四年丁巳三月八日、久静公御代痔の平癒祈願に、京より功雄霊神を勧請、公の無疾病、御神徳の無境を、臣栄助をして祭を主宰。今後歳歳怠らず。
右文は荘内地理志にある記事の一部です。」 |