串間神社の庚申猿田彦大神

2014.09.07

串間市串間




串間神社 由緒沿革
「彦火火出見尊を主祭神として外に十二柱の神々を祀るので十三所大明神と称していた。山幸彦と呼ばれる、主祭神が猪・雉などのものの大井この地を狩場そして笠狭の宮から通われた仮宮所で穂●宮と称しその宮跡を斎きまつったと『神名録』は伝えている。
 『高鍋藩寺社帳』によると桓武天皇の時に平安京の朱雀院に鎮座しその後、順徳天皇の時に当地に安置したともいうが、詳細はわからない
 永保六年(1563)領主島津忠親の奏請に依り神階宜下勅額を賜り、以後藩主祖世々、福島総社として尊崇された
 正平十四年(1359)には野辺盛房が十三所大明神の社殿を再興されたことが記録されており、その後、応仁元年(1467)には島津立久、永正十二年(1515)天文十三年(1544)と相次いで島津氏が再興、秋月領となっても元和七年(1621)から慶應二年(1866)まで再興が続いている。
 而して明治維新後は専ら福島、北方、大串、本城、都井、市木六ケ町村の氏神として、維持運営された。
 明治五年(1872)都城県管轄中、神社改革の際、串間神社と改称し郷社に列せらる。
 明治四十年(1907)旧六ケ町村の出資により社殿を改築されたが、老朽化し損傷が著しく御接遇出来得ない状態にあり時あたかも平成元年が串間市制三十五年の記念すべき年を迎えるにあたり奉祝記念事業として昭和六十三年六月改築奉賛会を設立し、平成元年六月工事に着工、同年十月竣工をなし、農業の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けている。」
串間神社

拝殿

本殿裏の石塔群

境内北側

庚申猿田彦大神

享保十七年(1732)