慈眼禅寺

2013.04.13

延岡市北方町曽木




慈眼禅寺由緒
「当寺は弘誓山慈眼禅寺と称します。宗派は曹洞宗。本山は福井の永平と、横浜の総持寺であります。
 当寺の御本尊は繹迦牟尼仏、脇侍として聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩が奉祀されています。
 当寺は平安時代の末期、沿承年間(西暦1177年〜81年)に創立され、御開山は伝応宗達大和尚であります。
 天文元年(西暦1532年)に中興開基は甲斐周防守重吉公、剃髪して決叟善勝上座となられました。
 又幕末には勤皇僧、胤康和尚の住職された寺院であり、日向倒幕運動の拠点となりました。」


僧胤康
「胤康は文政四年(1821年)武蔵国(現在の束京都板橋区下赤塚町)で郷士の家に生れた。
 八歳の時同地の名利曹洞宗松月院住職天休和尚の弟子となる。天保三年天休和尚が松月院を故あって辞し三年後の天保六年(1835年)慈眼禅寺住職となった天休和尚と共に入寺する。
 胤康は薫陶をうけて佛道の深奥を極めると共に兵法にも通じ数回の諸国行脚ののち勤皇倒幕の思想を抱くにいたった。当時の延岡藩内藤氏は、徳川譜代の大名であったので勤皇を説くは不利と考え嘉永元年(1848年)豊後(大分県)竹田の岡藩中川氏が外様大名であることから家臣に近づき勤皇思想を鼓舞し家老中川式部中川土佐等も胤康和尚を師と仰ぎ多くの藩士も和尚に深く帰依した。
 まさに機が熟して兵を挙げんとする時、延岡藩の知るところとなり、文久二年三月十一日(1862年)暁胤康は捕えられた。延岡藩の牢にあること三年、元治元年(1864年)の暮、幕府より京都町奉行へ胤康の身柄引渡しを命ぜられ京都に送致され所司代の取調べを受ける内、慶応二年四月十七日(1866年)獄中で遷化した。世寿四十六歳であった。
 さとらばや わしの山寺 今ここに
 空にひとしき 道としらずや
             胤康」

慈眼禅寺
曽木の慈眼禅寺に立ち寄りました

本堂

胤康和尚墓碑

胤康和尚胸像