市木地蔵


北郷区宇納間 市木




市木地蔵 愛宕将軍地蔵大菩薩 霊験由来記
「市木地蔵尊の開基は、元正天皇の御代、西暦717年養老元年の夏、山城国札の郡治郎坊といわれる行脚僧が、延命地蔵を奉持し市木の里に旅装を解かれ、今の堂宇の傍らにあった樫の大木の堂内に尊像を安置参らせ入定されたのに始まります。
 その後、治郎坊和尚は衆生済度の祈願を固め、桜の皮をはぎ取り、衣の破れをつくろいながら諸方へ行脚の旅を続けられました。
 和尚の母人は、我が子の行脚を慕い求めて、市木の里へ参られましたが既に治郎坊和尚は旅立ちの後で、悲嘆にくれ旅の疲れもはなはだしくその夜は付近の芝生に仮寝の夢を結ばれたところ、不幸は不幸をうみ何人かはなった野火のため非業の焼死を遂げられました。
 後日和尚はこれを聞き知り市木へ馳せ帰りましたが、母の横死を悼む余り一念発起となって自らも神となり仏となって一切衆生を呪火の難からすくわんことをかたく祈願し、延命地蔵尊を防火除難の地蔵とあおぎ日頃の祈祷は続けられここに尊い一生を終えられました。
 星変り歳移って百十余年、徳川第十一代家斎の享和元年(約160年前)、時の延岡藩主内藤備後守政義公が、江戸在勤中、江戸市中に大火が起り、藩邸もまさに類焼しようとするとき、神仏に祈誓をこめられたところどこからともなく忽然として屋根に一異僧が現れ、「水を注ぐこと大雨のごとく」と古記録にいっているが、遂に鎮火し藩邸はことなきを得ました。
 その夜公の夢枕に、かの異僧が現れ、「我は領内宇納間の地蔵なり、領主のせつなる祈願により防火せしめたり。」と声朗らかに告げられました。夢さめて公は感激措く能わず、帰国後、尊崇の余り剃髪染衣し、内藤暁山と号し市木地蔵に親拝、そのおり名位なき市木地蔵では領主の位階にくらべ支障あるものとして、特に「愛宕将軍地蔵大菩薩」の尊号と内藤家家紋「下がり藤」を寺紋として授けられ、文化12年の秋には地蔵堂を建立、御供田として一反二畝二十八分を献納されました。
 やがてこのことは幕府にも伝わり、徳川の家紋「三葉葵」の使用も許され、畏き辺りよりは、論旨御下賜の栄に浴するに至りました。
 その後代々の藩主の親拝が引き続き行われ、市木地蔵の名はこのあらたかな霊験と共に、燎原の火のように天下に伝わり、日向の国はもとより隣国から隣国におよび世に唯一を誇る火防の地蔵としてひろく尊崇の対象となりました。
 古記録の「参詣者は暁天より踵を接し慇賑を極める」をそのままに、現在でも旧正、6、9月の各24日、特に旧正月24日の例祭には県下はもとより、遠く大分、熊本など各地からの参拝者で賑わいます。
 地蔵尊の御尊体は、今をさかのぼる1200年の昔、奈良時代天平勝宝年間の名僧、行基菩薩の一刀三礼の霊仏と伝えられ、一刀を刻する毎に三礼をされつつ彫刀を揮るわれる、由緒深いもので、治郎坊和尚の残された教詞文のなかにも行基菩薩とのつながりを伺い知ることができます。」
北郷区から日之影町へ抜ける県道210号線は道路災害復旧工事のため1時間の待ち時間がありました
いい機会ですので、宇納間地蔵尊奥之院の市木地蔵を訪ねてみました

本堂