御頭神社

2018.07.16

延岡市北川町川内名 西ノ脇




佐伯薩摩守惟治公を祀る
霊廟 おとうさま御縁起
「たまたま大永七年(1527)秋、豊後の国栂牟礼の城主 佐伯薩等惟治公、故ありて主家大友より攻められ当地三川内に落ち来たるに、新名治郎太夫の一党多勢をもって迎え撃ち、ついに尾高知の峯において、悲憤の最期をとげ給う。時に惟治公は御年三十三歳なりしと伝えられる。生き残りたる一人の家臣は、主君惟治公の首級を敵手に渡さじと、涙ながらに小袖に包み、夜陰にまぎれて、山の尾根間道を伝い落ち行き、疲れ果てたる身をもってここ宝泉寺までたどりつき、境内のケンボウナシの枝に、首級の包みをかけしばし休息したる由なり。
 さて出発せんとするに、不思議やな首級包みはにわかに重く、枝より動かすことが叶わず。止むなく住職に事の次第をつぶさに告ぐれば、住職は戦国の世の習ひとはいえ、惟治公の非運を深く悼み、いとも懇ろに供養の上境内に手厚く葬り、年毎の祭祀供養を怠ることなし。
 以来四百数十年、おとう大明神とこそ称え申して崇め奉れば、惟治公の御霊はじめて安まり、恩沢漸く村里に及びて、崇敬参拝の風次第に昂まりしとぞ。
 さる程に、かかる由緒ある宝泉寺も、星移り霜おるるにつれていつしか衰微し堂宇は荒廃して無住の寺となり、ただ僅かに惟治公を祀る小宇おとうさまのみ、盲僧によりて祭りつがれて変ることなく、古来より頭のいたみ、血のやまい、さては近頃は学生たちの受験のねがい、其の他もろもろの祈願をこむるに、霊験いともあらたかにして、請願成就ならざるはなしとし、近郷はいうまでもなく、遠く宮崎・大分などより崇敬の男女うち続き、堂内には常に燈明香煙のたゆることなしという。」

御頭神社奉賛会 瀬口老人クラブ
御頭神社に立ち寄りました

鳥居をくぐると社殿

裏手の五輪塔