高牟禮神社 由緒沿革
「文政八年(一八二五如月十二日火災により古記録等消失焼失す当社由緒を“三国名勝図絵”によると天智天皇七年(六六八)大職冠藤原鎌足公の命により真幸院に勧請し一の宮を飯野に二の宮を加久藤に三の宮を馬関田に崇む馬関田三の官は高牟礼神社である。
はじめは三の宮四社大明神といい真幸院五社の一社で祭神は天津児屋根命・天照大神・斎主命・式甕槌命という。
建武元年(一三三四)五月二十七日の文書によると当社大官司職日下部行房職と嫡子行守に譲るの書にたかむれの六所権現の名がある。
また応永五年(一三九八)七月に当地頭沙弥玄昌(北原範兼の法号)が田地二反寄付の文に三の宮と記してある古来より崇敬された神社であった。」
平成二十一年一月吉日 |