大河平つつじの由来
「このつつじは、大河平領主、大河平左近監隆俊という人が島津義弘公の設計で邸宅を造った際、霧島山中より映山紅(キリシマツツジ)の見事な物だけを集めて 庭木にしたものといわれます。植えられたのは天正十年(今から約四百年前に植えられましたが、大河平一族は永禄七年五月三十日(今から四百二十七年前)伊東軍と戦いほとんど滅亡しました。
これが世にいう今城合戦です。この赤紅の色は、大河平だけしか出ず他の場所で育てても同じ色は出ないといわれます。
それは、大河平一族百余人の怨念の血がこのつつじ色に出るからだといわれるからです。四百年もの長い間、大河平の歴史を見て来たつつじです。大切に育てて下さい。」
平成三年四月設立 大河平小剣道父兄会一同
平成二十三年三月 転記
大河平屋敷絵図
「概略
大河平左近将監隆俊は、戦国末期の天正10年(1582)頃、上大河平の旧領を拝領し、島津義弘の設計で邸宅をつくった。この邸宅が、明治10年の役で全焼したので、大河平隆芳は記憶をたどり、明治33年(1900)3月、絵師の小波南洋魚青に描かせた彩色画である。
屋敷跡は、現在、大河平小学校となっており、庭園の大河平つつじは今も昔の面影を思わせる。」 |