木森用水路
「本庄川の右岸の向高田尻嵐田から旧倉岡村の一部をかんがいするものに木森水路がある。この水路の取入口にある昭和12年建設の紀功碑によると、この用水路の創設は元禄14年(1701)と口碑によって伝えられ、水路延長3,976間、随道2ヶ所を設け、綾、本庄倉岡の二町一村にまたがり、かんがい面積(破損のため文字不明)毎年秋の収穫高は2万2千俵と記されている。
この石碑建設後も井堰は年々歳々、たびたびの洪水被害は特に多大で、基底もろとも流失した。しかしその復旧は第二次世界大戦下であり、資材入手難と人手不足のため至難であった。終戦後の27年5月3日、本工事費1,800万円、付業工事費700万円の巨費を投じて竣工したのであるが、ここに至るまでの工事の経過は次の通りであった。
昭和25年7月18日グレス台風により多大なる損害をこうむり、石張り三段式の井堰決壊、林組合長ほか役員の熱意により、災害第1721号として事業費1540万円の認定を受けて、別府市大和土建会社と契約、同年11月14日起工、翌26年3月およそ60パーセントまで工事進捗した。ところが朝鮮動乱勃発による資材入手難と価格の暴騰は、自然工事の遅延を余儀なくされている時、不幸にも同年6月30日襲来のケイト台風では、堰堤の18mエプロン34mの沈下破損の大損害をこうむるに至った。これに対しては川越町長の努力により再災害として156万円補助認定を受けることができた。
しかし時あたかも県においては健全財政が強調され、これが補助金の交付にも影響して、せっかく予定の第2期工事も一頓挫をきたし、ようやく着工したのは同年11月5日であった。この間における資金の調達、資材の入手には、役員諸氏一丸となっての昼夜を分かたぬ努力が続けられること三星霜、かくてこの難工事も27年5月3日、ついに完成の喜びを見ることができた。」
(木森井堰竣工記) |