木森水路
2006.05.21


東諸県郡国富町大字向高




木森用水路
「本庄川の右岸の向高田尻嵐田から旧倉岡村の一部をかんがいするものに木森水路がある。この水路の取入口にある昭和12年建設の紀功碑によると、この用水路の創設は元禄14年(1701)と口碑によって伝えられ、水路延長3,976間、随道2ヶ所を設け、綾、本庄倉岡の二町一村にまたがり、かんがい面積(破損のため文字不明)毎年秋の収穫高は2万2千俵と記されている。
 この石碑建設後も井堰は年々歳々、たびたびの洪水被害は特に多大で、基底もろとも流失した。しかしその復旧は第二次世界大戦下であり、資材入手難と人手不足のため至難であった。終戦後の27年5月3日、本工事費1,800万円、付業工事費700万円の巨費を投じて竣工したのであるが、ここに至るまでの工事の経過は次の通りであった。
 昭和25年7月18日グレス台風により多大なる損害をこうむり、石張り三段式の井堰決壊、林組合長ほか役員の熱意により、災害第1721号として事業費1540万円の認定を受けて、別府市大和土建会社と契約、同年11月14日起工、翌26年3月およそ60パーセントまで工事進捗した。ところが朝鮮動乱勃発による資材入手難と価格の暴騰は、自然工事の遅延を余儀なくされている時、不幸にも同年6月30日襲来のケイト台風では、堰堤の18mエプロン34mの沈下破損の大損害をこうむるに至った。これに対しては川越町長の努力により再災害として156万円補助認定を受けることができた。
 しかし時あたかも県においては健全財政が強調され、これが補助金の交付にも影響して、せっかく予定の第2期工事も一頓挫をきたし、ようやく着工したのは同年11月5日であった。この間における資金の調達、資材の入手には、役員諸氏一丸となっての昼夜を分かたぬ努力が続けられること三星霜、かくてこの難工事も27年5月3日、ついに完成の喜びを見ることができた。」

(木森井堰竣工記)
県道脇に建っている記念碑

百間水路工事記念碑
木森井堰土地改良区
「木森井堰の沿革並当百間水路の由来に付ては確たる文献なく詳ならざるも島津藩政時代光久氏産業開発に依る農民の権利に晋意され世が泰平となりし寛文末期頃より元禄の中期に亘り藩費を投じて高岡郷入野村に井堰を築き時の領地向高村及び田尻村に灌漑をせしものと推察さるるも其頃此処は本庄川の入江にして水路の新設には舟に石を積んで沈むる等難工事を克服し 約百間に及ぶ埋立水路を完成 故に今も尚百間土手と言い伝うるなり 爾来幾多の災害に加へ老朽の為復旧に補修工事を重ね今日に至りしも当水路が埋立地であり 然も現在改良区の灌漑実面積は弐百五拾余町に達し その必要水量激増さる為に百間水路初め各所の破損崩壊あい続ぎ灌漑の支障屡々なりしが昭和二十八年 県が綾川総合開発の業を起すに伴い 水利権確保の為綾北川より南川への送水隧道及水路補償金七十五万年を得て当水路外下流の復旧工事を完遂し 送水の安全を期し得たるは県企業当局の適正なる取計と役員並に組合員の協力と労苦の賜なりと信じ 依て茲に碑を建て後世に伝うるものなり」
昭和三十四年八月吉日 建之

隧道の呑み口

サイフォン部分