環境庁選定 日本名水 轟水源
今なお生きつづける江戸時代の上水道
「細川支藩(三万石)二代細川行孝公が宇土入部後、ここを水源として4.8kmの市街地まで上水道をつくったのが始まりです。
当時、水道は陶菅であったが、明和の頃、六代細川興文公は現在の樋管(馬門石)にかえられました。今なお300年以上も生きつづけているこの上水道は日本最古のものです。
昔から肥後の名水として折紙が付き、特にお茶に適し、飲料水のほか灌漑用水、防火用水として幅広く使われてきました。
この水も市街地に入ると、本管から教本の支管に分かれ、士族屋敷には各戸に井戸が、又町家には各町内毎の共同井戸から汲み上げる仕組みになっていました。
轟水源から末端の船場町までほとんど高低差がなく、送水にはいろんな工夫がされています。地盤の高い所では数メートルも堀り下げて樋管を据え、低い所では水道専用の塘をつくったり、更に重要箇所には「マス」をつくり、水圧を調整しながら水を導いています。
また樋管の修理には、昔ながらの特殊な「ガンセキいという接着剤が使われています。」
宇土市 |