中山観音堂

2021.02.28

球磨郡多良木町大字奥野




中山観音堂(相良三十三観音堂第二十八番札所)
「多艮木町大字真野字中山にある中山親音堂は、もと中山寺の本堂跡です。
 御堂(町指定文化財)は元、茅葺きであったものを瓦葺きに葺き替えたものです。堂内の正面壇上に聖観音菩薩立像及び四天王像四体(持国天・増長天・広目天・多聞天)が安置されています(県指定重要文化財)。
 本尊は慈悲の心であらゆる人々の苦しみを救う聖観音菩薩です。像高153p、桂の木の一本造重りで、左手に蓮華を持ち、右手は手のひらを前に向け、指を自然と伸ばし垂れ髪は肩に掛かっていて大変美しいお姿です(平成二十五年解体修理)。
制作された時期は平安時代前期頃(九世紀末から十世紀初め)と思われま、当地方最古の仏像です。ただし何度も修復されていて、内繰りも後世のものです。四天王像は平安末期・十二世紀の作と思われます。
 平成二十七年(2015)、文化庁から様々な文化財群を一つのテーマでつないだ『日本遺産』の認定が初めて発表され、人吉球磨地域の『相良七百年が生んだ保守と進取の文化〜日本でもっとも豊かな隠れ里−人吉球磨〜』が選ばれました。
相良三十三観音めぐりはその構成文化財となっています。(
 境内に井口美辰の逆修碑があります。
美辰は生前、寛政八年(1796)に墓碑を建立。
『かくて世に あるてふものを おひが身を いつをかぎりの いのちなるらむ』と背面に辞世の句を刻む。
 ご詠歌     ′
 『手折りとれ こころの奥野 中山に のりの花咲く 玉の妓あり』  武親
 『とことはに 散らで花咲く のりの庭 はこべ(運べ)心の 奥野中山』 美辰
 ※『相良三十三観音めぐり』の歴史
 江戸時代の延宝五年(1677)、人吉、願成寺金堂脇に藩内の破損した仏像を安置した諸尊堂が創建され、その披露役をしたのが人吉藩家臣井口武親で、建造事業の中心人物でした。武親は三十三観音めぐりの御詠歌を残していて、そのひ孫の井口美辰は、人吉藩家老を勤め藩主の世継問題等に活躍した人物で、晩年は奥野村中山に隠居し、武親同様に御詠歌を残しています。
 ご詠歌は、和歌形式の讃仏歌。起源は西国三十三か所の各札所で詠まれていた和歌を後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったことによると伝わります。
 観音めぐりで一般的な祈願文としては、
『願わくばこの功徳をもって あまねく一切に及ぼし
           我ら衆生と 皆ともに 仏道に成ぜんことを』
(観音様にお願いします。この三十三観音めぐりという良い行いが、この世のすべてのことに影響し、私の周りのすぺての人々が、いっしょに仏教の真理をさとって仏と毎年春と秋のお彼岸になると人々が祈願成就を願い『相良三十三観音霊場巡礼』がい行われます。地元では巡礼する方々に道中の好天と安全を願い、心を込めたご接待『おもてなし』をしております。どうぞ、みなさまでお詣り下さい。」

多良木町
中山観音堂を訪ねました

お堂

井口美辰の逆修碑

境内の石塔