百太郎溝取入口旧樋門
町指定史跡
「百太郎溝旧水路の取入□の樋門に使用されていた主な石材を使用して、現在の場所に復元されました。旧水路取入□は、現在の取入ロより約200m下流に構築され、現在では球磨川左岸の雑木林の中に旧水路の跡が認められます。堰止め灌漑用水として利用しようとの計画は鎌倉時代からありましたが実際に施工が始まったのは、1680年代(江戸時代初期)といわれています。口碑伝説によると今から310年前‥1680年相良頼喬公の頃、人々は不況と恐慌に喘ぎ主食米増収のため開田の必要に迫られていた。百太郎堰構築の計画は、第一期工事から第五期工事までにわたり錦町の高桂川まで掘削された。その工事の内容は、子供から老人まで一丸となって協力して人力の限りを尽したという。堰構築も幾度となく行なわれたが洪水期を迎えるとひとたまりもなく崩壊し、ただ人々の失望を深めるにすぎなかった。ある時、庄屋の夢枕に水神様が立ち「袴(着物)に横縞のつぎをあてた男を人柱にたてよ」とのお告げがあり、“百太郎”がその犠牲となり大石柱の下に生き埋めされる事になった。本人の嘆きも、家族の悲しみもこの事業の前に踏みにじられ神の意志の前に理屈はなかった。土に埋められる様を誰一人見ることはできなく、惟合唱念仏の声とすすり泣きの声が次第に大きくなり轟々とひびいた。
百太郎堰の完成は、宝永7年8月20日(1710年)と記され、灌漑用水路として上中球磨地方の耕作面積拡大の誘引をなし、1500ヘクタール余りを有する百太郎溝で生活基盤の安定を図るとともに経済発展の基礎をなしています。」
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