宮原SAの石橋
2007.07.29

八代郡氷川町早尾




“石工”の里東陽村
「江戸末期から明治・大正にかけて、驚くべき土木・建築技術を持ち、全国にその名をとどろかせた“種山石工”。この石工集団は、まだ科学や構造力学が発達していない当時、驚くべき知恵と技、職人魂によって数々の石橋を築き上げ、当時の人たちにとっては洪水にも流されない夢の架け橋を造りました。そして1世紀以上たった今も、石橋は重厚でありながらぬくもりを感じさせる姿を保ち、人々の暮らしに根づいています。当村には、肥後の名石工として通潤橋や皇居の旧二重橋等を架けた橋本勘五郎の史跡などが残っています。」

火の国発祥の地・・・宮原町
「氷川は、むかし“火ノ川”と呼ばれていた。
氷川の水源は、遠くの泉村の奥岩川や栗木川にあり、一つは下厳、北種山を経てくだり、もう一つは座連川、鹿路川、川俣川となり、北種山に合流し、その川を“火ノ川”と呼んだ。この川筋には火打ち石が多い。
 いまの氷川は、種山川から“火ノ村”(立神一帯から宮原地方の村名)の畔りで火ノ川と呼ばれ、八代湾に入った。火ノ川は、後世になって肥伊川と呼ばれ、近代に入り氷川となった。
 氷川を火ノ川と呼んでいたころ、宮原一帯の集落は、火ノ川の畔りの“火ノ村”と呼ばれていた。
 火ノ村は、国や郡や郷の名が、すべての漢字の二字で書く定めができたため、“肥伊”の郷となり、7世紀の後半ごろ“火の国”と改められ、さらに“肥の国”と改称され広がり、肥前と肥後の国の名前に発展していった。」

宮原郷土史より