満願寺

2008.09.14

阿蘇郡南小国町大字満願寺




満願寺縁起
「人皇第九十代亀山天皇の時代鎌倉幕府の執権北条時頼の弟・北条時定は弟定宗、嫡子随時一門を同道して阿蘇小国の地頭として当郷に下向し、元寇祈願のため形勝の地を当山にえらぶ、即ち九州の中央部で要害堅固の地、自然湧出の温泉のあるところでそのむかし弘法大師が霊場に開かれ鎌倉時代梶原氏が築く庭園のある縁故の地を以て勅宣を蒙り文永十一年(1274)京都山科醍醐の霊場を移して五坊(別当坊、密教坊、中ノ坊、北ノ坊)を建て満願寺と総称す。
 北条時定は鎮西奉行として筑前姪浜に於て、文永、弘安の役では三軍の将となりて元寇を防ぎ三代にわたり鎮西奉行をつとむ、時は移りて孫治時の時代鎌倉幕府は滅びて北条一門跡を絶つ、孫治時は満願寺境内に父祖の廟を営み五輪の石塔を建つ。現在満願寺小学校の運動場に面するところにある。
 その後南朝後村上天皇より正平十一年(1356)六月十二日、祈願精誠いたすべき旨を賜いて穀田を寄付せられ、阿蘇大宮司宇治惟時、境を検知して付属さる、御綸旨二通並に大宮司避状今なお現存せり。
 北条三代の墓に隣して地蔵堂あり、貞治六年(1367)の建立と年代記に記され、本尊地蔵菩薩は身高二米六十五糎の大木彫仏で立像の柔和な線は南北朝時代を偲ばせるものがある。
 地蔵堂の東隣りに天文十五年(1546)竹田の番匠が立てとと伝える大師堂があったが明治初年の廃仏毀釈によりとりこわされ、本尊弘法大師像は大正十二年満願寺創立六百五十年祭記念建立の大師堂にまつられている。
 元亀二年(1571)仁王門(山門)立つとあり、その後山門こわれて仁王像のみ立ちし時代あるも明治の初め地蔵堂内に安置して現存するものなり。現在境内入口の楼門は鎌倉時代の建築にして現存すれば特別供保護建造物となるも惜しいことに明治三十九年、当部落大火の厄に遭い類焼せり。現在のものは昭和四年今上陛下御大典記念として建造されしものである。」
ようやくやって来ました、満願寺。満願寺川に架かる正面の橋はコンクリート製

境内

近くの猫

その子供か?
以上 2008.09.14撮影


7年7ヶ月ぶりの訪問

山門をくぐり境内

宝塔

庭園
以上 2016.04.09撮影