大鞘樋門殻樋

2006.02.18

八代市鏡町両出




大鞘(おざや)樋門 市史跡・文化財指定
「文政2年(1819)9月24日に四百町新地の塩留めは完成した。耕地337町9反が新たに上納地に加えられたわけである。これが文政2年(1819)に干拓された四百町新地である。この時築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い備前流と言われる樋門の革新的技法を取り入れている。
 水門は5か所で、北から殻樋五枚戸。二番樋三枚戸。江中樋四枚戸(現三枚戸)。新殻樋七枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えた)。三番樋三枚戸(埋没)。
 尚、当初一番井樋三枚戸が文政廻しの北側に計画されていたが、塩浜塩田設置のため施工されなかった。現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江中樋は合法と呼ばれる構築法になっている。
 備前流は、備前の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の若い監督であった広松輔周がむりに巨石を使わせたので「広松のもがい井樋」と言われている。引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されたが、この後の樋門はすべて備前流・合法により築造されている。
 七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に永い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容した。誰が言うともなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となった。
「大鞘節発祥之地」の顕彰碑が昭和46年千丁町と合同でこの樋門横に建立されている。」

八代市教育委員会
大鞘樋門のうち一番北側のもの

南東側

上部
以上 2006.02.18撮影


計上のため6年11ヶ月ぶりの訪問

かなり傷んできたのか、補強してあります

上部

北西側
以上 2013.01.13撮影