相良家墓地
2006.11.26

人吉市願成寺町




相良家墓地 熊本県指定史跡
「人吉城主初代相良長頼から37代相良頼綱に至る歴代城主等の墓地である。相良家の菩提寺であった願成寺の裏手に位置し、その多くは五輪塔で、中に数基の宝篋印塔などがある。
 第1墓所から第5墓所に分けて配置され、優れた構成を見せる。また、それらは極楽浄土を願う宗教的雰囲気をかもし出している。
 入口正面にある大きな角柱墓は初代長頼の墓で、そこはもと願成寺金堂が建っていたところである。金堂が明治10年の西南の役で焼けた後の明治19年、現在の墓が造られている。そこから奥の石段を登ると左手に第1墓所があり、2代から19代までの、主に中世に生きた城主の墓がずらりと並ぶ。ここは後年に寄せ墓されたものである。その右手に近世以降の第2、第3、第4墓所と続く。また、第1墓所の左手奥に第5墓所があり、中に石田三成の供養墓もある。相良家の墓地はこの他にも瑞祥寺、永国寺、中尾山寺にもあるが、ほとんどがこの墓所に収められている。」
墓地への階段はイチョウの落ち葉のじゅうたん

相良家初代 相良長頼の墓
「相良氏は藤原鎌足の子孫とされ、平安時代の終わり頃には遠江国(静岡県中部)相良荘の地頭をしていた武家である。
 建久4年(1193)、相良頼景は肥後国球磨郡多良木村に下向し、同9年にその第一子長頼が同郷の人吉荘に下向したとされ、元久2年(1205)には人吉荘の地頭に任命されている。
 長頼は建長6年(1254)に78歳で亡くなり、願成寺の金堂前に埋葬され、永禄7年(1564)の願成寺金堂の再興にあたっては、長頼の遺骨は金堂須弥壇の下に移され金堂そのものが長頼の廟所(御墓)となったと伝わっていた。
 金堂は周辺のお堂とともに明治10年(1877)の西南戦争で焼失したが、その後、金堂跡地に長頼の墓石と遺骨が発掘され、それを新築の石塔の下に改めて埋納し、明治21年に現在の石塔が完成した。石塔碑文は、明治19年に長頼から数えて第36代の頼紹氏が書き記したものである。」

人吉市教育委員会

墓所
以上 2006.11.26撮影


6年ぶりの訪問

大イチョウ

落ち葉のじゅうたん
以上 2012.11.17撮影



5年ぶりの訪問

階段にも落ち葉

上から
以上 2017.11.25撮影