人吉城跡の紅葉
2019.11.23

人吉市麓町




史跡 人吉城跡
「人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。
 人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた城でした。
 室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉落として明泊4年(1871)の廃藩置県まで存続しました。
 人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在見られる石垣が完成しています。
 球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です0大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。
 水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である棒出工法で築かれたものとして有名です。
 城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。」

平成4年3月 人吉市教育委員会
6年ぶりの訪問

少し紅葉

左の石橋

奥の石橋

鯉が泳いでいます

石垣に紅葉