娑婆神峠の石畳
「昔は小野部田から豊福にかけては山すそまで海だったので、裟婆神峠路が、北へ通ずる幹線路だった。
天正年間(1573〜1592)以前は人馬も超え難かったのを、鰐瀬(今の城南町)の僧、立善が発願し、里人と協力して石畳の道路をつくった。
この峠は、大切な道路であるとともに、位置やけわしさなどから、戦乱の時代には要塞にもなった。
相良18代の義陽が、この峠を超え豊野に入り、響ヶ原で甲斐宗運のため悲運の死を遂げたことは有名である。また、西南の役でも戦場となった。
この、娑婆神峠道は昔の薩摩街道にあたる。」
宇城市指定文化財
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