川瀬の庚申塔 あさぎり町指定有形文化財
「川瀬の庚申塔は川瀬観音堂の道向かいに位置し、高さ232p、中央幅75p、板厚20pで南面して建立されています。頂部には破損した笠石がのり、長い年月が経っていることを感じさせます。
刻銘は、円相という直径37pの円内に梵字『カ』を刻み、わずかに赤彩が認められます。この梵字『カ』は、地蔵菩薩を表す古代インド語(サンスクリット)文字です。その下には『庚申』と大きく刻みこの石塔が庚申塔であることがわかります。また、『庚申』の『申』の字は、角がなく丸みをもち特徴的です。ここにも赤彩がわずかにみられ、はじめは、全体的に真っ赤に塗装された石塔だったのでしょう。下部には右手に笏杖、左手には宝珠をもち、像高84p、僧形でおだやかな表情の地蔵菩薩坐像を半肉彫りしています。
『庚申』の右脇には、江戸時代初期の年号「寛文三年己卯」、また『庚申』の左脇には『中春廿一日』と刻んでいます。
『寛文三年』は西暦1663年で、干支は『癸卯』ですので、『己卯』の干支に矛盾があります。『中春』とは三月を表す文字です。この庚申塔は、春の彼岸日に川瀬地区の人々によって地蔵菩薩を主尊として庚申供養を行い建立されたものです。
庚申とは
60日ごとに巡ってる庚申(かのえさる)の日の夜、仏家では帝釈天や青面金剛を、神道では猿田彦大神を祀って、その夜は精進しながら徹夜して延命長寿と健康を願う習俗です。
庚申の夜に眠ると、人の体の中にいるとされる三尸(さんし)という三匹の虫が抜け出し、その人の悪い行いを天に昇って帝釈天に告げ口し、命を縮めると信じられていました。これは、中国の道教の『守庚申』に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んに行なわれれた。ちなみに、三尸虫は、人の頭、腹、足にいて、眼を暗くし、髪を白くし、五臓を損ない、精を奪うと考えられていました。信仰する人々は三尸虫が告げ口しないように、つまりは徹夜をして三尸虫が体から抜け出さないようにして命が縮まるのを防いだものです。
このように庚申信仰は、球磨郡内では江戸時代には最も盛行され、庚申塔がたくさん建立されました。建立場所としては、人が往来する所や集まる広場から神社や寺院の境内などに建立されています。
墓碑二基について
庚申塔の左脇には二基の墓碑があり、中央の墓碑は、高さ123p、『常圓禅定尼霊位 延寶七己未年十二月廿八日』と刻まれています。これは常圓という女性の墓で、江戸時代前期の西暦1679年に建立され、かつて川瀬地区に住んだ武士の奥方がかと思われます。また、最も左にある墓碑は、高さ103pで刻銘がなく、かつては墨書されていた墓碑かもしれません。」
あさぎり町教育委員会 平成22年3月吉日建立 |