仏知山津友寺跡
「津友寺は、常球寺・龍雲寺と共に島津藩曹洞宗の三か寺といわれていもので、神社改帳によれば、この寺院は、はじめ応永二十年(1413)葵己福昌寺二世竹居正猷大和尚が開山せられ、安寧山了心寺と号し吉田家十代吉田若狭守清正(法名月岑了心大禅伯)の菩提所であった。
その後、吉田家十四代若狭守位清は島津氏に叛き、吉田城(松尾城)にたてこもったので太守忠治公がこれを攻めた。
しかし、永正十二年(1515)乙亥八月二十五日当城攻めの最中に亡くなられたので、この寺に葬られた。
弟の忠隆公は直ちにそのあとを継いでこの地を攻めたため、位清は力尽きこの城を献じた。
そこで了心寺を忠治公の菩提寺として、仏知山津友寺と改められた。
『西藩野史』によれば、忠治公の母は大友氏の出で、島津の『津』と大友の『友』とを合わせて『津友』としたとある。
参道には、仁王像の胸部と正徳六年(1716)丙申四月八日と刻まれた石燈龍が残されている。」
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