米軍オリンピック作戦(志布志湾上陸)に備えた内之浦砲台跡
「この洞窟は、昭和19年第二次世界大戦のときに米軍の志布志湾上陸を阻止するために造られた砲台跡です。このことについて、内之浦町出身で芥川賞候補作家である太佐順氏が執筆した『砲台跡の夏草(日米決戦と志布志湾)』の中に次のように紹介されています。
この陣地の大砲は、もともと佐賀関町に本部のあった豊予要塞砲を取り外してきたものである。豊予要塞砲兵連隊長の矢野穆彦中佐とその一中隊を新たに編入させると、完成した砲台の試射を軍本部に申請した。さらに石黒豊治大佐ひきいる重砲兵第十五連隊1221名が、独立混成九八旅団(堅志兵団)の一翼としてその指揮下に入った。
内之浦に駐屯した部隊の変遷はいささか複雑である。砲台構築を目的とした有明作業隊が釆たのが昭和19年9月、部隊編成は豊予要塞本部隊が主軸である。山口県から歩兵一個大隊、広島から工兵大隊、久留米から自動車中隊、佐世保から僧兵一個中隊、下関から砲兵一個中隊、対島の厳原から砲兵二個中隊を抽出して、内之浦臨時要塞の築城作業にあたらせたものであった。そしてこの作業隊は海蔵から高崎へかけての砲台陣地と志布志湾に浮かぶ二つの島、枇榔島と鬢垂島に10センチ加農砲二門と12センチ砲二門を据えつける砲兵洞窟陣地を完成させると、20年3月中旬、有明守備隊の主要部隊となった第十五重砲兵連隊(石黒豊治大佐)にそれらを引き継ぎ、次の築城場所である佐多の伊座敷へ移動していくことになった。」 |