田之神一号

2015.07.25

垂水市新城




田の神一号 新城「神貫神社文化遺跡」
「田の神は、旧島津藩内だけに見られる石像である。神貫神社入口に破損した田の神が置かれている。この台座には。○○大明神、○○居所○、還暦の節、田の神二体建て、左側に『右世話役、四郎右衛門、長兵衛、三右衛門、作左衛門』と明記されている。創立は、江戸時代中期の記名があるものが最も古い。垂水市内では十三体確認され新城から牛根まで番号がつけられている。各集落では、田の神祭りや、田の神講など開かれ、親睦や慰安の機会とされた。田の神を拝めば豊作になり幸福が訪れる。春になると山の神が里に下って田の神となり、秋の取り入れが終わると山に帰ると信じ、庶民達が凶作に泣き、豊かな実りをこめて刻んだものであろう。像の表情を見つめると、喜怒哀楽の祈りを感じられる。神貫神社一号は享保十九年四月上旬○○大明神居所中還暦の節二体建立とある。」
神貫神社を訪ねました

標柱が建っています

二体の田の神

側面

神貫神社由緒略記
「神貫神社は古代神木大明神社と云われ、その創始は古く、古代神木村の隼人が神木に氏神を祀り祭り事をおこなってきた。神木大明神社の社領は遠く垂水まで及んでいたと云われる。
養老四年(720)大隅隼人と大和朝廷との抗争があった際征隼人大将軍として大宰府から大伴旅人が又宇佐八幡宮から禰宜辛島勝代豆米が神軍を率いて隼人征伐が行われた際神木村(新城)も多くの犠牲をだした。
延暦二年(783)伊予守橘朝臣清次が社司として奉斎することになった。垂水市史によると、平安時代神木神社の社領である垂水に八幡神社である手貫神社が侵入し争いが起きた。はじめ神木神社が強かったが手貫神社は開聞九社に援軍を求め、鹿児島神社が加勢に来た為神木神社側は敗れそれより神木神社の社領は新城だけとなった。
明治四十二年(1909)四月二十八日無格社黒石田神社外五社及び同年五月五月四日無格社鎮守社外二社を合祀し郷社となり新城の氏神として又鎮守社、産土神社として親しまれてきた。
社殿建立の記録は応永二年(1395)八月二十八日造立棟札に領主肥後 享禄三年(1530)霜月十六日造立棟札に平重武 永禄六年の棟札に伊地知重興とあった(この頃神木は神貫にあらためられた)
その後昭和十三年(1938)二月火災により全焼、昭和十四年再建、昭和四十六年(1971)改修、昭和五十九年補修現在に至っている。
境内に享保二十一年(1736)新城島津五代久隆の時代に寄造された手水鉢の他田の神、神木(枯れ木)、むくろじ、杉、楠、桜などの古木がある。」

神貫神社の眠り猫 新城「神貫神社文化遺跡」
「垂水史料の神貫神社に猫の写真が掲載されている。昭和四十六年神社改修より誰の作か話題になった。眠り猫といえば、日光東照宮の江戸時代初期の名彫刻家として有名な左甚五郎作として眠り猫を思い出す人も多いようである。向拝殿の真上に彫り込まれた猫は、左甚五郎作品と寸分たがわぬ名作と称されている。鹿屋市旧鹿屋駅の前通りに店舗を構えて居られた重信工務店『転居先不明』の作だとされている。」

神貫神社の手洗い鉢 新城「神貫神社文化遺跡」
「新城地区民が祖先から受け継いだ、文化的遺産に社殿入口に手洗い鉢がある。神社は地区民の総廟として敬神宗祖の中心であった。手洗い鉢に『奉寄進、享保二十一年丙辰二月四日吉日』と刻まれている。二百五十五年前寄進されたもので、徳川八代将軍吉宗の時代、新城領主五代久隆の時代であり、久隆は享保十三年(1728)九歳で第二十三代藩主継豊により元服、後名を権七と命ぜられ、寛保四年(1742)大奥に入り起居、寛保六年(1744)に曽木地頭に任ぜられ、寛延四年(1751)島津第二十四代藩主重年を御仮屋に迎えている。」