安徳帝と居世(こせ)神社
「宇喜多秀家公が日参され、薙刀などをご寄進なされたと伝えられております居世神社は、第八十一代安徳天皇をお祀り申し上げていると伝えられるお社です。
文治元年(1185)屋島に続き、長門の壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の落人は、安徳帝をお守りして、硫黄島等を経てこの地に漂着したと伝えられています。硫黄島は、鬼界ケ島ともいわれ平家覆滅の謀議(鹿ヶ谷事件)に連坐した僧俊寛や平判官康頼などが流された島です。
居世神社が鎮座まします、私どもの小さな集落には東小路・中小路・宮崎小路と古の京風の地名が遺されております。いつ頃からこのような呼び方がされるようになったかは定かではございませんが、当地の集落は平家の落人が住みついた所だといわれております。
古くからの伝承で、安徳帝がお着きになられた海岸を、お着き崎といい御潜居の地を居世神申しますが、ここには、安徳帝がお遊びになった御所の尾とか、ご守護のために見張りをしていた法師の立つ手などが、地名として遺されております。
さらに、お亡くなりになられて荼毘(だび)に付された小烏神社の跡などもございます。
居世神社から西の方へ約500メートルほどの所に安徳帝の陵がございます。当地ではお墓とはいわず昔から陵と申し上げておりまして、文化年間には、第二十五代の島津藩主重豪公もご参詣になられて自ら献灯・玉垣を奉献されています。
居世神社の居世(こせ)は居世(いせ)と読んで、実は伊勢ではないかといわれています。是は清盛の祖父正盛及び父忠盛が伊勢の国守で平家は伊勢国で出世しました。為に伊勢神宮の加護は心から一族信心をされていたようであります。この居世(こせ)も、居世(いせ)と言えば、源氏の落人狩り発覚の発端となりかねない、為にわざと居世(こせ)といったものではないかといわれています。
社殿の旧記によりますと、上古(年代不詳)十二月二十九日の夜、農夫が汐を汲まんと渚に出かけたところ、空舟が一艘漂着して船中に子供の泣き声が聞こえ中に七歳ばかりの童子が乗っていた、この方が欽明天皇の第一皇子で、十三歳でコウぜられここにお祀り申し上げているとされていますが、欽明天皇の時代の頃までは、まだ暦法は伝わってはいなかったのではないかなど、史実や検証から安徳帝が牛根麓のお着き崎に漂着されたのを、無理に欽明皇の第一皇子として時代を偽ったのではないかといわれております。
お社の御神殿は寛文三年(1663)に改築された約350年前のもので、御神殿の正面の梁に金色に輝く菊の御紋章は、皇室との関係を何よりも有力に物語っているものと思われます。」
平成26年3月建立 居世神社改修事業実行委員会 |