「この田の神は背部に宝暦二年(1752年)の刻記がある。宮之城町内では7番目に古い田の神である。泊野の市野、楠八重、大平、平川の母ケ野の像と高峯のものは作風が類似している。この地方に彫師がいたものと思われる。旧島津藩治下だけに見られる「田の神」像は生産、生殖、豊作の神として「種」を薬包に入れて背負っている。(神園清秀氏談による)この田の神の特徴はシキが極端に大きく、編目も鮮明に刻まれている。顔面及び両手部は明治初期の廃仏毀釈当時損壊されたものと思われる。従来春秋年二回の田の神講のうち秋の講の際各家を持ち回りしていたものであるが、昭和50年三腰和憲氏宅前に安置し、更に協議の結果、昭和60年秋現在地に堂を作り移転安置したものである。」 |