興昌寺跡仁王像
2014.08.10
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曽於市末吉町南之郷
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興昌寺跡
「この地は、かつて興昌寺(本府福昌寺の末、曹洞宗)のあった所で、明治二年頃の廃仏毀釈によって廃寺になった。
興昌寺墓地には、鎌倉時代末期の五輪塔二基(正中三年・1326の銘あり)をはじめ、末吉郷初代地頭村田雅楽介の墓(慶長年間墓標杉樹持株現在無し)、薩藩の学者愛甲喜春の弟子白尾兆庵(等庵)の墓(享保二年、1717没)明治初頭常備隊小隊長で学者であった矢上恭介の墓(明治二十六年、1893没)興昌寺にあった。
仁王像二体(宝暦九年、1759、造立、施主の名を刻す)その他末吉郷士諸家の墓、興昌寺関係の墓など往年の興昌寺をしのばせると共に文化財として重要なものが多かった。
昭和四九年三月、この地は農村地域工業導入促進のため、末吉町土地開発公社によって工業用地を造成十五メートルの丘陵を地ならししたので由緒ある遺物、文化財をこの場所に集めて顕彰することにした。」
末吉町教育委員会 |
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興昌寺跡
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入口の仁王像 |
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宝暦九己卯天(1759)
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興昌寺五輪塔
「寺僧夫妻の銘入五輪塔。正中三年()卯月廿八日と刻す。鎌倉末期」
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村田雅楽助地頭墓
「慶長の末吉郷創設時の初代地頭の墓」
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延命地蔵菩薩 享保十五年(1730)
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白尾等庵墓
「儒学者愛甲喜春の弟子で若い人の教育にあたった。桃庵とも書く。」
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矢上恭介墓
「恭介は学者で有馬厚軒の助講も勤め、多くの指定を教育した。」
以上 2014.08.10撮影
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2年8ヶ月ぶりの訪問
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阿形
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吽形
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宝暦九己卯天(1759)
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高野さんチェック中
以上 2017.04.15撮影 |