肝付竹友の墓
「天正元年(1573)正月、高山の肝付軍が志布志地頭、肝付参河入道竹友を大将として末吉国合原に来襲した。都城では末吉地頭・梅北地頭の急報を受けて、領主北郷時久は都城・梅北・財部・末吉の兵を率いて、肝付軍がまだ軍備が整わない間に急襲し、散々に肝付軍を破った。
肝付軍の大将肝付竹友は敗走して、大路の血が谷に至った時、湿田に白砂をまいて平地のように見せた所へ馬に乗ったまま追い込まれ遂に討ち取られた。竹友はこの地に葬られた。大路の末森方には、竹友の馬の鞍が保存されているといわれていたが、今はないようである。
竹友を討ち取った人は渡辺源助という人とも言われ、その子孫橋野の渡辺守氏方(現在養子)は竹友の墓参りをしないと祟るということで、近時まで墓参りしていたという。
竹友の墓の前に立っている供養塔に「竹友」の文字が刻んである。」
曽於市教育委員会 |