志布志の地名発祥の地
「ここ志布志屋敷は、六百六十五年に行幸された三十九代天智天皇にまつわる話が多く語り継がれているところです。
今の揖宿郡頴娃町に帰っていった女御の玉依姫を慕って九州まで行幸された天智天皇が船で着いたところがこの地で、旧小渕橋の下流にあった広さ二坪ほどの岩(献上渕)から上陸されたといわれています。この岩は、護岸工事のため残念ながらなくなりましたが、昔は子供達の格好な水遊びの場として親しまれていました。
遠い頴娃の地に住む玉依姫を偲ばれる天皇は、心淋しくなり気をまぎらわすためにここ志布志屋敷の地に仮の皇居を建てられました。その時天皇のお気持ちを察した土地の女とその召使いの女が布を献上したところ、天皇は、上下の身分にある者が共にその志の厚いことを喜ばれて、この地は“志布志”であると言われました。以来、高浜庄と呼ばれていたこの地方を志布志と呼ぶようになったということです。(「志布志記」より)
皇居は志布志屋敷の山上の平地にあったといわれており、川沿いのここ小円丘は“御苑の鼻”と呼ばれ、天皇の夕涼みの場であったということです。昭和40年代までは、旧三月十六日に付近の集落の“山神祭”がこの丘で行われていました。
また、近くの志布志小学校の校庭内には、天皇が腰掛けて休息されたという“御腰掛の石”が埋没しています。
ここは、“志布志”という地名の発祥の地です。県道に架かる橋は、伝承から“献上橋”と名付けられました。
小渕橋の架け替えにより“御苑の鼻”がより身近なものになりました。これからも、周囲に残された遺跡を大切にしていきたいと考えます。」
平成十一年十二月小渕橋竣工
志布志町建設課 |