武家屋敷跡
「口伝えによると白浜堤防沿いに、四八戸の武家屋敷があったが、弘化二、三年(1845、6年)の頃、川内川氾濫・白浜堤防決壊のため、大方の士族は今の内場・峰下方面へ転居し、今に残る内場・峰下の武家屋敷が形成されたという。岩永三五郎が八間川改修・江之□橋架設に着工する二〜三年前のことである。
屋号 勘場(藩の勘定方/八間川河口 洲鼻)の有馬家、倉元(藩の米倉/お寺の下)の家村家、倉屋敷の青崎家、新屋敷の知識家の他、有馬家、内田家、樗木家、木元家、鮫島家、日高家等があり、『高江三千石』と言われる米や、藩営『寄田野牧』の管理を行っていた。
『寄田野牧』では毎春二才駒をおおよそ三百頭浦獲するため、馬追いには川内八郷から多くの勢子が動員され、『馬追いは高江郷士に従うべし』という藩の布令のもと、馬の捕獲作戦は高江郷士が仕切っていた。
『寄田野牧』は確認されるだけでも、五百年続いたことが判る。
また、武家屋敷の周りには内場馬場を中心に、高いの家屋が立ち並び川内川の川向こうの小倉からも、渡し舟で買い物や床屋に来ており、大変賑わっていた。
現在も武家屋敷の面影を残し、木造の門構え、玉石の塀、石造りの蔵広い庭園、立派な生垣、古木の庭木など、往時をしのぶ事が出来る貴重の襖絵、額、甲冑、重箱、古文書なども残っている。」
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