長崎堤防

2015.01.02

薩摩川内市高江町




長崎堤防
「川内市高江町の長崎新田は、かつて川内川の汐が流入する入り江状の低水地で、ろくに米も取れない潟でした。『親がやろうとて行かれよか高江、高江3千石火の地獄』の歌があるように、米の不作地帯でした。
 第十九代藩主島津久光は、小野仙右衛門を普請奉行に任じ、此の地の大規模な干拓工事を命じました。工事は延宝七年(1679)に着工し、約八年の歳月を費やして貞享四年(1687)に竣工しました。川内川左岸高江地区内のこの広潟は、周囲三里、堤防の長さ三六〇間(640m)、開発された新田の面積が三〇〇町歩(約3ku)にも及ぶ立派な水田に生まれ変わりました。
 そしてこの堤防を『長崎堤防』と呼びました。
 当寺の工法は、そのほとんどが人力に頼り、その上、しばしば洪水に襲われ、築いては崩され、また築くという大変な難工事でした。仙右衛門は苦心の末、鋸の刃のような形の堤防を考案して、やっと川内川の激しい水流を抑えることができたと伝えられています。この鋸の刃状の突起部は7ヶ所あり、潮流の調節をなすもので、工学的に価値のあるものといわれています。木曽川治水工事に先立つこと68年前のことです。また、工事を監督した小野仙右衛門を祀った小野神社の下の崖には仙右衛門が工事完成を祈って刻んだ『心』の文字が残っています。
 この大きな困難と犠牲をともなった工事は『袈裟姫伝説』としても語り継がれています。ある夜、『娘を人柱にたてよ、その流れに沿って築堤せよ。』と告げる不思議な夢を見た仙右衛門は、愛娘の袈裟を人柱にし、お告げのとおり鋸の刃の形に堤防を築き、ようやく工事がうまくいったと伝えられています。」

国土交通省川内川河川事務所
長崎堤防に立ち寄ってみました

文政十二年(1829)の水神

下流側