横瀬古墳

2016.04.23

曽於郡大崎町横瀬




横瀬古墳
「古墳時代中期(5世紀半ば)に築造された大型前方後円墳。
 鹿児島県内では、東串良町の唐仁大塚古墳に次いで二番目の規模です。横瀬古墳の被葬者が活躍していた5世紀半ばに限っては、九州最大で西日本屈指の前方後円墳に位置づけられています。
 明治35年に竪穴式石室の一部分が盗掘の被害に遭った際、石室内は朱塗であり、腐食した直刀・勾玉・甲冑などがったことが伝えられています。
 昭和52・53年の鹿児島県教育委員会が行った発掘調査で周溝の存在が明らかになり、さらに平成22・23年に大崎町教育委員会が行った発掘調査で周溝の外側を廻る外溝が確認され、二重周溝(内溝と外溝)を備えたこふんであることが分かりました。古墳及び周溝の発掘調査で発掘された遺物として、土師器の甕形土器片、大阪府堺市南部一帯に広がる陶邑窯産須恵器、円筒埴輪、形象埴輪などがあります。
 ヤマト政権と深いつながりを持っており、大陸〜南西諸島〜近畿地方を結ぶ広域興隆の拠点を掌握していた西日本を代表する首長の墓と推察されています。
 南九州では、台地の縁辺部に立地する古墳が多い中、横瀬古墳は低地にある砂丘帯を利用して造られています。
 古墳の南北は砂丘が連なり、東西は緩やかに低く傾斜しています。
 外溝は古墳の領域とその外側を区画するためのもので、砂丘が連なる墳丘の南側・北側にのみ造られています。東側・西側は自然の湿地を利用して古墳の領域を区画していると考えられます。」

大崎町教育委員会
雨が降っているので車中から撮影

東側