諏訪神社
「由緒
昔は長峯諏訪社と呼ばれ、大口三社(当社と郡山八幡神社、西原八幡神社)の一つとして、郷土の人々に特に崇敬された神社です。
記録によれば、元亀二年(1571)新納武蔵守忠元が、小木原の諏訪神社を大口城近くの長峯に勧請したと言われ、また、それより四十一年前の、享禄三年(1530)七月二十七日に、菱刈の軍勢が諏訪神社の内祭に参詣人にまぎれて、時の大口城主島津出羽守忠明を襲った。また永正八年(1511)と書かれた獅子面(焼失)が二つあったともあり、何時頃この神社が創建されたかは不明ですが、これらの記録は、古くから郷土の人々の崇敬あつかった神社であることを示しています。
嘉永三年(1850)十二月火事で御神体とも全焼しましたが、其の翌年再建されました。
稲の穂がふくらむ頃、豊作を祈願して、村々から繰出される多くの太鼓踊や、勇壮な神馬が境内をつっ走る例祭のにぎやかさは、今も古老の語り草となっています。
鳥居前の巨大な仁王様の石像は記録によれば享保十四年(1729)の作とされ、神社裏の突端には、愛宕神社があり、大口市街地を見降す、すばらしい眺めです。」 |