入佐の田の神

2012.03.24

鹿児島市入佐町




入佐の田の神 県指定文化財
「造立は、享保十二年十月ニ十三日(1727年)本町十ニ体のうち最古の造立である。丸彫りの僧体立像で高さ九十六センチ幅四十センチで、背後から見ると陽石に見える。川(永田川)沿いの永田から離れた山中にあるのは非常に珍しい。かぶり物は笠だが、これもコシキのシキであろう。右手にメシゲ左手にスリコギを持っている。両肩から背にかけて縦三角形のものも刻んでいる。
※裏側に次の刻字がある。
  享保十二年未年(一七二七年)
中央に 奉立田神宮 寄祈進
  十日廿三日
右側に 新村中誓衆 三十三人
下部に 作者 西郷五郎兵衛
 主取 川畑利兵衛
    野○○衛門
    吉海八〇〇〇
    川畑○○○
    原田善兵衛
 注 川畑・吉海姓は現存するが、西郷・原田姓はない。
※タノカンオットイ
この田の神もタノカンオットイにあった。
大正のはじめ突然なくなった。入佐では大騒ぎとなり、八方手分けして探した結果、同じ郡内にあることがわかり、先方にかけ合ってやっと返してもらった。先方は焼酎・米などを持参、こちらは、大鼓三味線で迎えたという。
※田の神の信仰について
 町内のたんぼのところどころに田の神が祀ってありますが、この田の神と農民との関係は深いものがある。日本の神祭りは、年中行事とか、神社の祭りとか、すべて稲作儀礼を背景にしているのである。日本人の伝統的な生業は稲作で、神様に供え、人々の食糧として重要なものであった。農業技術の未熟な時代は稲の生育は自然の力にたより、従って稲の発育段階に応じ神様の恩恵を受けるために祭りが行われてきた。年という語は『イネ』という意味に解せられて稲作の一周期をもって一年とする考え方が行われてきた。そこで稲に対する日本人の観念とか信仰が日本文化の形成に大変な役割を果してきたのである。」

平成元年12月7日
鹿児島市教育委員会
案内板に従って山道を進むとようやく入佐の田の神に着きました

こんな山の中に

側面

背面

享保十二年未年(1727)
奉立田神宮 寄祈進
  十日廿三日