水晶山花蔵院上宮寺跡 由緒沿革
「寺伝によると推古天皇二年日羅上人がここに錫を駐めて、修禅した時水晶珠が虚空から飛んできてこの山に止まり、瑞光を現し山中山外あたかも花蔵●のようになり、上人はこの不思議に上宮感じ、帝都に奏し、ここに神殿と当寺を建立し、水晶球を神殿に安置してご神体となした。これが熊野権現である。
建久年中(1190〜1198)当寺及び上宮神祠を再興、永正十五年(1518)上宮の神宣託により、神体の水晶珠を石函に納めて当山の地中に埋め、神鏡をもってご神体となした。この年に島津運久が再興、天正七年(1538)第二回加世田攻めでは往時政誉法印が降伏の法を修し、この運気をみた所に松を植え勝手松と呼んだ。
往時当寺は阿多郷内に十二の支坊があった。明治三年廃仏毀釈令で廃寺となりこのあとに和多利神社が建立された。」
平成元年八月
金峰町教育委員会
阿多地区歴史研究会 |