給黎(きいれ)城址
「給黎城は三つの半島状台地を利用したもので、北側の突出台地を北之城、南側を南ヶ城、中央を本城と称し、本丸は本城の先端地域に設けられている。
本城は空堀によって三つの郭に区分され、それぞれの郭に土累と本丸の北側の中腹には晴三〜十mの腰郭(馬乗馬場)が遺存している。
建久の昔、伊作平次郎大夫良通の次子兵衛有通がここに居城し、姓を給黎と名乗った。
その後、応永十八年(1411)伊集院頼久の所領となった。しかし同二十年(1413)島津久豊が肥後球磨の城主相良氏の援軍を得て駒を返し(駒返しの名が付く)頼久を攻め戦勝を祝して給黎を喜入に改めた。
付近には何万ヶ宇都、駒返し、太刀打ち迫、陣之尾弓、弓指など字名が残り当城をめぐる戦闘を如実に物語っている。また当城の北方には出城として上籠城と内城がおかれていた。
文禄四年(1595)より代々肝付氏の居城となった。承応二年(1653)四代領主兼屋のとき、現在の麓(喜入小学校)に居館を移すまでの約四六〇年以上、ここが麓として政治の中心的役割を果たしてきた。」
鹿児島市教育委員会 |