龍盛寺跡と石塔群

2013.07.20

薩摩川内市祁答院町下手




龍盛寺跡と石塔群
「石塔群の西下方、洞窟状の奥壁面の墨書銘文から、この他に『龍盛寺』があったことが判明し、以後ここを『龍盛寺跡』と称するようになった。
 龍盛寺の創建についての記録は見当たらないが、文明末期から延徳、明応初期(1487〜1495)ごろと類推される。文明十七年(1485)豊州家忠廉が大村に侵攻した際の激戦で、戦死した両軍戦士の供養のために建てられた寺と思われる。   この寺跡には、宝塔・五輪塔、宝筐院塔、無縫塔、笠塔婆塔等、戦国期から慶長期にかけての石塔約五十基が残存している。古いものから列記すると次のとおりである。
 天文三年(1533)待琢公記室禅師、天文十五年(1546)前住永平當山五世龍雲興和尚、元亀二年(1571)當山六世寛冲鶴和尚等の墓塔で、いずれも曹洞宗の僧である。中でも永禄三年、ここで示寂した徳巌碩大和尚は、本山総持寺の法統を継いだ高僧であることから龍盛寺は蒲生永興寺と同じく、曹洞宗総持寺派の寺であったことががわかる。」

平成十二年度設置 祁答院町教育委員会
県道沿いに案内板が出ていましたので、立ち寄ってみました

五輪塔群

無縫塔等

石窟内の石塔

石窟と墨書銘文についての説明
「この石窟は平成8年1月から2月にかけての南日本石塔研究会による調査の結果、墨書銘の銘文趣旨が凡そ判明した。
 中でも、最大にして価値のある発見は、この地が『龍盛寺跡』であることを特定できたことである。
 この墨書銘によって判ったのは、次のようなことである。一.この石窟は観世音菩薩を祀った祠であること。(ここに祀られていたと伝えられる馬頭観音木像は現在馬頃尾公民館の敷地内に移されている。)
二.享保二十年(1735)大村郷の川畑安右衛門が自身或は子息の眼病平癒祈願成就の報謝として、廃壊していた岩窟を修復したものではないかということ。
三.『ここには昔寺があった』と伝承されていながら、今まで分からなかった寺の名が『龍盛寺』という寺であったということ。」

平成12年8月
祁答院町教育委員会設置