大応寺跡
「城北宇ケ石の墓地がその跡である(右方向)。開山の京都建仁寺の前住好天一関和尚が文和元年(1352)に入寂しているので、それ以前の創建である。
開基は祁答院第七代重茂の長子延重で、応永二九年(1422)卒去し、法名を雲山慶公大禅定門と称したので大応寺の山号を雲長山と号した。
一関和尚は鶴田大願寺の開山でもあるので、初めは大願寺の末寺であったが、その廃寺後、延重が少年時代国分の正興寺で勉学していた因縁により、臨済宗同寺の末寺となった。
以後大村郷最大の寺院として尊崇をあつめた。本尊千手観音。
同寺は大村郷における文教発祥の地で、藩政時代吉祥寺と共に寺子屋を開き、子弟の教育に当たった。
明治二年の廃仏毀釈で悉く廃棄されてしまったが、後世破棄された仁王像を発掘し現在人ロに安置してある。
墓地内に大村郷地頭桂民部忠秀の五輪塔(高さ約2m)があり、『一圭長雲居士』 彫銘してある。忠秀は在任中の正保三年(1646)三月一九日六十五歳で死没、大応寺に葬ったが、この五輪塔は子孫の久澄が供養のため建立したものである。
また、入り口付近の小丘上に鎮守神社があり、供養塔・木造狛犬・相輪残欠等が保存してあり、室町時代応仁の乱ごろのものと思われる。三国名勝図絵に、藩政時代の大応寺の絵図が収蔵されている。」
『祁答院町史より抜粋』 |