波之上神社仁王像

2015.07.25

鹿屋市高須町




波之上神社由緒
「古くは波之上三所権現といい太古の民出雲族の祖熊野権現と同神 神亀と爾倍魚の傳説は海人族渡来の史実を映し当社創建のふるきを物語る。正平三年(1338)権僧都昌光は遥々熊野により鷹栖に来たり 当社に国家鎮護の立願文を奉じている 往時己に京まで当社の由来は聞こえていた事を示す 現在昌光の創建になる波之上神社の別当寺光明院は祇園にその跡を止めている」
平成十年十二月吉日
鹿屋市教育委員会
鳥居奥に仁王像が見えました

波之上神社の仁王像

阿形

吽形

上から

社殿

境内の石像

波之上神社境内の板碑 市指定 考古資料
「板碑は鎌倉時代に中国から伝来した供養塔の一種である。五輪塔から変化したものとの説もあるが定説ではな。上から頂部、刻線、上額部、身部、下額部、根部から成り、根部が下の基礎にはめこまれている。
 ここの板碑は項部がやや内側に反って突出し、県内にある他の板碑とは作り方がやや異なっている。六基あるが一基は赤色凝灰岩で軟らかく磨損が甚しい。他の五基は黄色凝灰岩(山川石)で造られているため六百年近く経た今でも刻時字まではっきりしている。これは県下でも重要な塔婆。
 一基は僧心勝の追善供養で『右志者為僧心勝聖霊□□菩提乃至法界也、嘉暦三年戊辰九月廿一日一周忌敬白』と在り、上方に札(胎蔵界大日如来)の梵字が薬研彫りで刻まれている。鎌倉時代末期の作。他は僧敬心の逆修供養塔、追善供奉塔であり、元弘二年(北朝年号では正慶元年)正慶二年号と南北朝年号を混合して使用している。
 これは板碑そのものと共に当時の混乱した世相を物語るもので歴史研究上からも第一級の文化財である。」

平成十年十二月吉日
鹿屋市教育委員会


以上 2015.07.25撮影


1年9ヶ月ぶりの訪問

阿形

高野さん、カメラ目線

吽形
以上 2017.04.16撮影