小山田氏墓
「『加治木家系図』によれば、小山田氏は加治木氏の庶流で、平安時代に加治木四代頼光の子・資頼から始まる。加治木氏八代親平は建久八(1197)年『加治木郡司吉平』と記され、その子信経が『木田氏』、九代恒平の子良平が『郡山氏』、その子俊平から『吉原氏』が分派する。また建治二(1276)年の記録からは、『別府氏』も一族を成していたことがわかる。観応元(1350)年、郡山城の戦いでは、『親族小山田彦五郎』の名があり、この人物が加治木の『小山田氏』である可能性が考えられる。また、永享十(1438)年には、『小山田 大蔵元平』が馬を奉納した記録もある。
一般的には加治木氏本家は、小山田・木田・吉原・別府の四民によって、構成されていたと考えられる。加治木氏は南北朝時代に南朝側として北朝側の島津氏と激しい戦いを繰り広げ、明応四(1495)年七月二日には島津十一代忠昌が加治木に攻め入り、翌明応五(1496)年には降伏している。この後加治木二十二代久平は阿多に移されて、この地方の加治木氏の領国経営は終わったとされる。
小山田氏墓は一基の五輪塔と二基の宝筐印塔から成る。五輪塔のうち空輪・風輪・火輪、宝筐印塔のうち相輪と墓壇は二基とも桃木野石で復元してあるが、保存状況は良好で、宝筐印塔の塔身や格挟間には丁寧な幾何学文が施される。現在でも子孫の小山田氏(蒲生在住)が鎮り続けており、外観は歴史性を感じさせ、周囲は整然とした地域の崇敬を印象づける古墓である。最も西側の宝筐印塔には『元亀元(1570)年』と年号が確認でき、『明安妙鏡大姉』と女性法名が刻まれている。中世の加治木氏の歴史を今につなぐ貴重な文化財である。
参考文献『加治木郷土誌』『旧記雑録前編一・二』 『島津国史』」 |