大井上神社伝来の墨書材 市指定文化財
「大井上神社(老亀大明神)は、中世末の『加治木五社』のひとつで、文明18年(1486)11月21日付けの棟札には、加治木氏の一族でこの一帯の領主、小山田氏と思われる『藤原朝臣衆平』が、一族の武運長久・息災延命を祈願した趣旨が書かれている。
昭和12年に村社となり、昭和42年には、近隣の5つの神社を合祀して本殿を新築した。この際、神社に永年伝来してきた墨書のある建築材を町に寄贈、郷土館に保管された。
書かれてあることは、『豊臣秀吉が九州に侵攻してきて、これを島津勢が迎え撃ったが敗北し、島津の殿様は京都へ連れて行かれた。いったいこれからどうなるのかと心配していたら、しばらくして、殿様が無事帰国して、領国安堵ということになった。このことを感謝して神社を造る』という内容である。この頃加治木の領主は島津配下の肝付氏であり、秀吉の侵攻と島津氏の敗北によって、小山田の人々が将来への不安やなげきが記録され、安堵の気持ちが神への感謝となっていることが、なまなましく読み取れる。
また、400年以上前の神社造営に携わった関係者や地域の人々の名前や年齢が、肩書きなどと共に記録されており、柄柱には、平清盛の末弟忠度や菅原道真の和歌が書き込まれている。非業の死を遂げた人間の怨霊・御霊(ごりょう)を鎮めて崇りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする御霊信仰が、修験や密教の影響を受けて行われていたことがわかり、今後の地域史を研究する上で貴重な資料として加治木町指定文化財となった。」 |