南浦文之(なんほぶんし・文之和尚)墓 国指定記念物(史跡)
「文之和尚は弘治元年(1555)日向国飫肥南郷の外浦(現宮崎県南郷町)に生まれ、十三歳のとき串間の竜源寺に入り、一翁より禅(臨済宗)と儒学を学び、明(中国)の黄友賢(江夏友賢)に五経周易の宋学を学んだ。
のち、第十六代太守島津義久、第十七代義弘、第十八代家久の三代につかえ、文教の振興に尽くす一方、藩の政策・外交に重要な役割を果した。その間、加治木の安国寺、国分の正興寺の住職となり、さらに、鹿児島城下、もと内城の地に家久が大竜寺を建てたとき(慶長十六年(1611))当時の開山和尚となった。
文之和尚は、朱子学にも秀で、桂庵弾師らの四書倭点(和訓)を改良した『文之点』を創始し、『南浦文集』『四書集註』『周易談義』など漢籍に訓点を施し、日本儒学の発展に貢献した。
著書には、天文十二年(1543)の種子島への鉄砲伝来の様子を一部に記している『南浦文集』『日州平治記』などがある。元和六年(1620)九月三十日、六十六歳で加治木の安国寺でなくなった。
墓は昭和十一年(1936)九月三日国指定の記念物(史跡)として指定された。」 |