岩屋寺跡1
「この寺は古くは『大巌屋寺』とも言われました。いつ頃創建されたかわかっていませんが、『重修巌屋寺記』によると、天徳2年(958)再興したという記録があり、この資料に添えば、この寺は少なくとも千年以上前から存在していた県下でも、かなり古い寺院の一つとなるようです。
なお、このころの領主は大蔵氏ですので、大蔵氏とこの寺の関わりが想像できます。また、ここから500mほど南に現存する薬師如来の木像は、弘治3年(1557)の作といわれています。
治承元年(1177)頃、加治木氏(大蔵氏)8代八郎親平の次男木田三郎信経が出家して、当時の別当職になっています。領主の次男が住職になるくらいですから、この寺の規模や加治木氏との関係の深さが窺えます。
また元徳元年(1329)、加治木氏16代氏平の時代にも修理が行われたと言われています。」
姶良市教育委員会
岩屋寺跡2
「南北朝時代は南九州も激烈な戦乱の時代で、加治木での戦闘も古記録に記されています。延文元年(1356)頃には加治木岩屋城の攻略、加治木本城の攻撃や反撃などが行われてあり、この岩屋寺との関わリが想像されます。
加治木が伊地知氏の時代に変わっても、この寺の修理は行われたようで、永正5年(1508)頃を中心に『快扶』という作者銘の彫られた石像がいくつか残っています。
その後、島津氏の時代になると、島津義弘は京都の仏師に嫡子鶴寿丸の金泥の肖像を造らせこの寺に安置しました。また、加治木島津家3代久季の宝永年間(1704〜1708)に住職の頼昌法印がお堂を修理しています。この人は非常に尊敬を集め『中興開山和尚』と呼ばれました。和尚の死後、石像が造られ安置されましたが、この像は、珍しく廃物毀釈の被害が見舞われていません。 加治木島津家6代久徴も享和元年(1801)、この寺の復興に努め、このときの様子を『重修巌屋寺記』として残しています。」
姶良市教育委員会
頼昌法印の石座像・不動明王磨崖仏像
「『岩屋寺記』によると、このあたり一帯は当時の岩屋寺境内で、この周辺には寺院や祠が建ちならび荘厳な構えであったそうです。
ここから200mほど山手には、大きな岩をくり抜いた廃仏毀釈の影響を受けていない立派な『頼昌法印石座像』があります。宝永年間(1704頃)の岩屋寺の住職であり、『中興の開山』といわれました。
この石座像から少し登ると左側の岩壁に、作者・制作年代は不明ですが、凝灰岩を浮き彫りにした高さ約3mの不動明王磨崖仏像があります。更に登ると、『奥の院』と呼ばれる寺院跡があり、石仏や参道、石垣などの旧跡が埋もれている中世の遺跡です。」
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