玉里邸庭園
2011.04.10
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鹿児島市玉里町
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旧島津氏玉里邸庭園
庭園の概要
「鹿児島市の北部丘陵、愛宕山の西麓に位置する旧島津氏玉里邸庭園は、島津薄第27代藩主島津斉興(1791〜1859)によって天保6年(1835)に造営された。斉興の別称が『玉印』であったことから、玉里邸と命名し、のちにはこれが地名となる。敷地乗半部の平坦地(現在の運動場)には、かつて主屋建築群が建っていた。主屋建築の書院座敷に面して造られた池庭は『上御庭』と呼ばれる。一方、西半部は一段低くなった構造で、池庭と茶室が造られ『下御庭』と呼ばれる。
斉興没後は養女で妹の勝姫が住居していたが、明治10年(1877)9月、西南戦争により荒廃した。その後、斉興の五男、島津久光(1817〜1887)が再築に着手し、明治12年(1879)に上棟した。久光は、71歳で死去するが、国葬をもって福昌寺に葬られた。その際、棺搬出用として作られたものが現在の黒門で、その南正面には現在の国道3号線までの約700mの直線道路(通称“国葬道路”)が建設された。
昭和20年(1945)7月19日、第二次世界大戦によって茶室、長屋門、黒門を残して建造物は焼失し、庭園は灯籠などが破損したものの大きな被害を免れた。
昭和26年(1951)には鹿児島市が所有者となり、昭和34年(1959)鹿児島市立鹿児島女子高等学校が移転した。この時『上御庭』は一部を残して校舎及び運動場に改修された。
書院からの鑑賞を意図して造られた『上御庭』と、回遊式の『下御庭』から成る本庭園には、地域独特の材料・意図が用いられており、南九州の江戸時代末期の大名庭園としての学術上・芸術上・鑑賞上の価値が高く評価される。また、江戸時代の水道施設である玉里水道の水道高枡が原位置をとどめて3基現存し、合わせて水道石管も地中に良好な形で確認されるなど文化的価値は高い。」
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長屋門
「黒門造営前は、玉里邸の正門でした現在、鹿児島女子高の校舎の間に移設されています。」
「この門は旧薩摩藩主島津氏の玉里邸(当時は玉里御茶屋と呼んでいました)の正門でした。玉里邸は島津氏第二十七代の当主島津斉興が天保六年(1835)に創建したものです。明治時代に、斉興の次男で玉里島津家の創始者島津久光が住み、ここで亡くなりました。
創建当時の建物の大半は西南戦争で焼失したため、現在見ることができません。今も残る茶室は明治十二年(1879)に久光によって再建されたものです。現在学校正門の左右に連なる石垣は、玉里邸創建から十数年後に築かれました。『玉里御茶屋外回り芝土手石垣に仕調え方五百両』という記録が示すように、初め芝土手であった外回りが、五百両で石垣に造り替えられています。
したがって、この長屋門は玉里邸創建当時からの最も古い建物です。黒門が造営され、正門としての役目を終えますが、その後も長く創建当時の位置に残されました。
しかし昭和六十年、校舎建築の必要から、向きを百八十度回転させ、現在地に移し、その一部を旧来の位置に残してあります。」
昭和六十一年九月
鹿児島市教育委員会 |
3度目にしてようやく見学することができました、鹿児島女子高の西門から入るとまず長屋門が建っています
事務室で許可証をもらって見学
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水道高枡
「玉里邸に引かれた約150年前の水道(玉里水道)の施設です。」
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茶室
「明治12年に再建されたといわれ、広さ73uの書院造です。」
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下御庭
「下御庭には、北側に茶室が建ち、南側に池が広がります。この庭園は、『廻遊式庭園』とよばれ、庭の景色に裏表がないため、池の周囲をめぐりながら、様々な景色を楽しむことができます。」
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キリシタン灯籠
「玉里邸の庭園は、江戸時代の終わりごろつくられ、建物からの観賞を目的とした書院庭(内庭)と廻遊式庭園(後苑)からできています。
茶室前の庭園(後苑)は、池を中心として大きな岩・石橋そして樹木・歩く道などで工夫し、素朴な中に品格が備わっています。後苑には、9個の灯籠があり、形と配置がよく考えられています。
中でも注目されるのが、この『キリシタン灯籠』です。この灯籠は、27代斉興(1809〜1851年)の娘“勝姫”が、ひそかに拝んだといわれており、形・デザインともにたいへんかわっていて、珍しいものとされています。ただ、はじめからこの場所にあったかどうかは、はっきりしていません。」
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南側から
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巨石を53個に分けて、磯の海岸から運んだとされます
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上御庭
「上御庭は、書院座敷からの眺めを楽しむために造られたものです。中島が亀の形をした岩であることから、『亀の池』とも言われます。」
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亀の形をした岩 |