皇徳寺跡
「南北朝時代、谷山郡司の谷山五郎隆信は、後醍醐天皇の皇子であった征西将軍宮懐良親王を迎え、御所ヶ原に谷山御所をたてた。しかし、北朝方の島津貞久勢と一進一退が続いたため、親王は、肥後の菊池氏のもとに去り、やがて弘和3年(1383年)に福岡県の矢部地方で亡くなった。谷山五郎隆信の子忠高は、無外円照和尚を招き、新しく山田に皇徳寺を建てた。皇徳寺は、福昌寺末寺で寺領100石、七堂の伽藍を備え、堂々たる寺であったが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈によりこわされてしまった。
今でも仁王像、無外円照和尚、円照の師峨山禅師の供養塔や歴代和尚の墓などが残っており、杉馬場、下馬先、寺屋敷の地名もそのままである。これらのことから当時の皇徳寺がいかに大きかったかがしにばれる。」
平成27年3月建立 鹿児島市教育委員会 |