地頭仮屋跡

2012.09.22

いちき串木野市上名




地頭仮屋跡
「この東西にわたる壁面は、串木野城外曲輪の一部である(現在の石垣は明治30年前後に築かれた)。上の住宅地区が地頭仮屋跡で広さは約33アール(三反三畝)。ここを中心として西之□・内村・麓・原郷の四つの郷があり、麓四郷と呼んでいる。
 島津重豪の積極開化政策で、安永二年(1773年)鹿児島城下に造士館と演武館を創設した。串木野でも間もなく当地頭仮屋屋敷に手習い学問所と剣術稽古所を創設した。明治二年最後の地頭坂木六郎は、ここに達徳館を設け、新時代の教育の基礎を築いた。これが鹿児島県第三十四郷校となり串木野小学校へと進展した。


串木野城(亀ヶ城・城山)
初代城主は、串木野三郎平忠道(薩摩郡本地頭平忠直の三男)で、五代忠秋は南北朝合戦で南朝方に味方して、島津の五代貞久と戦い、興国三年(1342年)頃城は陥り、忠秋は父祖の地知覧へ逃れた。それ以降当地は島津の支配となる。
 文明六年(1474年)川上忠塞城主に任じられ、栄久・忠克三代に及ぶ。十五代島津貴久は、山田蔵人(昌巌の祖父といわれている)を串木野・市来の地頭に任じ、十七代義弘は弟家久を串木野隈之城の地頭に任じた。家久は十年間地頭職にあったが、日向佐土原の領主として当地を去った。その後、文久三年(1863年)まで約30名の歴代地頭名の記録も残っている。
 串木野城の外曲輪は1025メートルで、城内には六つの拠点と三つの展望所の九つの小丘がある。自然の地形を利用した砦で、小丘間には長短の空堀が小さな山城を複雑化している。当城を主城として、五反田川南岸に浜ケ栫城・坂下城が出城として東西に配置されている。」
麓から南方神社へ向かう途中の石垣