荘厳寺遺跡と仁王像
「応永二十五年(1418)伊集院猪鹿倉出身の良範上人は上野園(群馬県)大聖寺に於て修行、真言宗小野派三宝院の密教法流を体得し、弘法大師の作と伝える仏像を得て此の地に草堂を建てて人々を導きました。
帰依する人が次第に多く、その庵は後に大勝山聖御院荘厳寺として栄え鹿児島の大興寺、坊津の一条院と並んで、三州(薩摩、大隅、日向)密門三本山の一つとなり戦国時代には頗る隆盛を極めました。 良範上人は嘉吉二年(1442)十月二十九日に逝去しました。
その後、歴代住職に立派な人が就いて寺運は益々盛んになりました。後年島津(十五代)貴久公が天文十九年(1550)居城を伊集院一宇治城から鹿児島へ移し弘治一年(1556)鹿児島に久乗院を建立荘厳寺九世俊盛法印を開山とし、藩の真言宗小野派の総本山と定め荘厳寺の知行高や寺宝、諸道具等大乗院へ移して荘厳寺は大乗院の末寺となって幕末には寺タカは四十三石でした。
しかしながらその盛時には山伏修験者や一般の人々の参拝が多く、領主達も多くの寺領を寄附してその土地の名を付けた坊舎が荘厳寺をとりまいて建てられました。大田坊、宮田坊、土橋坊、竹の山坊は皆それです。又、犬の馬場の神護院は別名原田坊と云い、西久保の内田坊麦生田の平等寺も荘厳寺の末寺でありました。
此の壮大な荘厳寺も廃仏毀釈によってすべて取り壊されましたが、山門入口に残された此の一対の仁王様の大きさによって往時の荘厳寺の壮大さと墓地内に残る数多の法印僧侶の墓石、五輪塔、宝塔、宝印塔、供養塔は往時を偲ぶ貴重な資料であり伊集院町文化遺跡として大切に永く保存したいものであります。」
伊集院郷土史有馬俊郎先生著より
昭和五十八年四月一日建 |