広済寺跡仁王像

2013.05.18

日置市伊集院町郡




広済寺
「宇治城の城主伊集院忠国は、十余名の男子が皆強い武将となりましたが、ニ人だけは僧になりました。兄が『南仲』弟は妙円寺を開いた『石屋』であります。南仲は京都の南禅寺に学び、帰ってからこの地に寺を建てたいと念じましたが、後の山が険しく、前には大きい池があり敷地が狭くためらっていたところ、一夜大雨が降り続き、山が崩れて池を埋め広い平野が出来ました。そこ1で仏に感謝し『泰定山広済寺』と名づけ開山しました。禅宗の一派臨済宗であります。時は、正平十八年(1363)、その後忠国の孫頼久の寄進により山門、仏殿、方丈、浴室、経堂等豪華な寺が完成しました。
然し、二五〇年経った慶長十八年、大火が起こり七堂伽藍を初め宝物、文書等すべて焼失、以後五十年近く住職も不在となりました。後、末寺の大田の報恩寺の雪岑和尚(琉球へ使者となリ中山王の護衛役)の協力を受け、延宝年間漸く再興され、明治二年まで栄えましたが、廃仏毀釈にてすべて壊され山門の仁王像が残るだけであります。
忠国公以下代々の城主の墓も、寺が荒れた頃寺脇の円福寺へ移されました。石屋禅師も若い項、この寺にて兄を師とし勉学に励みました。」

日置市教育委員会
道路脇に案内板

1体の仁王像のみ残されています