今和泉島津家墓地

2008.06.01

指宿市岩本




天璋院篤姫と今和泉
「篤姫は、天保6年(1835)12月19日に、鹿児島城下に生まれました。幕府は、第13代将軍家定の夫人を島津家に求め、今和泉島津家第10代当主忠剛の娘一子が選ばれました。嘉永6年(1853)に名を篤姫に改め、藩主斉彬の実子として幕府に届けました。
 将軍家に嫁いでわずか1年半後の安政5年、定家がなくなり、篤姫は天璋院と名を改め、大奥をまとめる役割をはたしました。
 幕末の動乱期には、実家の島津家と徳川家は対立関係になりましたが、天璋院は江戸城無血開城に大きな働きをするとともに、徳川本家の存続のために尽力しました。そして、明治16年(1883)11月20日、49歳の人生を終えたのです。
 ここ今和泉の地は、今和泉島津家の領地だったところです、宮尾登美子さんの小説『天璋院篤姫』では、篤姫は幼少の頃、ここ今和泉で育ったと描かれています。」
今和泉島津家墓地
指宿市指定文化財
「JR指宿枕崎線薩摩今和泉駅北東300mにある隼人松原と今和泉小学校一帯は今和泉公館の跡で、宝暦4年(1754)鹿児島城下で大磯館と呼ばれた別館を今和泉郷に移した。
 今和泉小学校地がこれに相当し、クロガネモチの老樹、手洗水鉢、老松、城壁を思わせる石垣が当時の館のおもかげを偲ばせている。
 島津第4代忠宗の子孫は第5代貞久の他、和泉・佐多・新納・樺山・北郷と分かれる。
 和泉家5代直久は第8代島津久豊とともに川辺平山城の伊集院頼久、島津久林を攻めた。
 この戦いで和泉直久は戦死し、このため和泉家は絶家となった。その後、320余年たって江戸中期享元年(1744)島津第22代継豊が弟忠郷に和泉家を今和泉島津家として復興させ重富、加治水、垂水とともに一門四家と呼んで特別待遇を受けた。
 今和泉島津家墓地は、初代忠郷から第6代忠冬に至り五輪塔や宝筐印塔、ほこら型をした14基の墓石が100基余りの灯籠に囲まれ、江戸中期以来この地を120年余りにわたり支配した「殿様」の威厳を今日に伝えている。
第13代将軍徳川家定の御台所となった篤姫は、今和泉島津家第5代忠剛の長女である。将軍なきあと天璋院篤姫(明治16年亡47歳)と呼ばれた。」
初代 忠郷の墓