湯之尾神社由緒
「祭神の御事歴
鎌倉権三郎景正は相模国(神奈川県)鎌倉の領主、鎌倉権頭景成の子で桓武平家の流れをくんでいる。通称権五郎と言った。寛治元年(1087)陸奥の守源ノ八幡太郎義家の陸奥征伐に景正十六才で義家に従い参戦した時、敵将鳥海弥三郎から右眼を射られ景正大いに立腹して矢を抜かないまま七日間弥五郎を探し求め遂に彼を捕えて射殺した武勇の人である。
勧請
神社の建立は明確な年号は不明、明治二十二年境内整理の際に文明五年(1474)と記した石碑を発掘した。
又、菱刈家第十一代忠氏の鐘があり、それにも文明十一年(1480)とあり、それらのことから勧請は文明年代(1470)と考えられる。昭和三十四年浮浪者による火災の時、取出した遺品で拝殿に掲げてある『御○書』の額面の背面に長享三天巳酉菊月吉日(1490)と記してある。
由緒
御霊代が当地に着かれたのは十二月二十九日年末の多忙な日で門松も立てず、年始の賀儀も七日になって行った。従って今も当地の人々は年始になっても門松を立てないのを古式としている。尚眼病に霊験があるとも言われている。」 |